山本 浩二
走攻守すべてを備えた“ミスター赤ヘル” 山本 浩二
往年の名選手が続々「レジェンドプレーヤー」として復活! 現役プレーヤーと融合し、夢の球団を誕生させることができる「プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2」に、究極の四番バッターが甦る。 走攻守すべてを兼ね備えた“ミスター赤ヘル”山本浩二氏。カープ黄金時代を築き上げた山本氏が、広島市民球場をバックに語る赤ヘル軍団強さの秘密とは?
「野球つくONLINE2」をひと通り体験していただきました。
- 山本
- スゴいなぁ。
現役の選手たちが600人以上、この中に入っているのだよね?
ちゃんとそれぞれの個性を持って。
ええ、さまざまなチームを試せます。
- 山本
- なるほどね。まさに監督やGMの気分を味わえるんだ。これは広島のファンにはもってこいのゲーム。
私の現役の頃なんかも、広島のファンはみんな、監督、オーナーの気分で試合を観ていましたよ。
だから理想のカープをつくり出すんじゃない?
野球の基本は投手力中心で、守備のバランスが取れたチームがいいんだけれど、打つだけのチームを組むのも楽しい。いろいろ面白そうだ。
ありがとうございます。しかも、これら基本プレイはすべて無料で楽しめます。
- 山本
- ほぉ~っ、それはいいね。気軽に楽しめるのはいいことですよ。
もっと楽しみたい人はコインを購入して、「レジェンドプレーヤー」などが使えるようになるんだね。
黄金時代のカープは、非常に魅力的なチームでした。
- 山本
- 選手層が厚かったからね。
投手も豊富だし、打線もただ打つだけではなく、機動力もあってバランスが取れていた。
もちろんクリーンアップが走者を還すことが多いのだけれど、実は六、七番が大きな役目を果たしていたんですよ。
それが当時のカープでは水谷実雄だったけれど、クリーンアップが塁に出て、それをしっかり還す。
まさに裏のクリーンアップ。
そんなどこからでも得点を挙げられる打線を組んでいました。
山本さんは指揮官としてもカープの中軸打者を育てられました。
江藤智、前田智徳、野村謙二郎、緒方孝市、金本知憲、新井貴浩など、そうそうたる顔ぶれです。
- 山本
- 最初、89年に監督に就いた頃は投手王国で、四番と呼べる選手がいなかった。
その中で前田や江藤など、イキのいい若手が成長してくれました。
ただ新井のときは、相当我慢はしたね(笑)。
03年に金本が抜け、開幕から新井を四番に据えたんだけど、打率も本塁打もいっこうに上がらなくてね。
後半からはシーツに代えました。
- 山本
- 新井とも2人でいろいろ話しましてね。
結果的に失敗に終わったのだけれど、その経験を生かして立派な四番打者になってくれた。
四番というのは、三番、五番とはまったく違う重圧があるんです。
これは投手も一緒で、エースが投げる試合は勝たねばならんという思いがベンチにはある。
それがチームの顔という存在であり、それを務めるには個人の成績だけでなく、チームの勝利も背負わなくてはいけない。
相当な精神の強さが必要です。
山本さんが四番に完全固定されたのは、初優勝の75年からでした。
- 山本
- 私が四番になれたのは、そしてカープが強くなれたのは、やはりキヌ(衣笠祥雄)の存在がとても大きい。
キヌは同い年なんだけど、彼は高校からだから4年先輩。
私が入団した当時の四番は山内一弘さんや(山本)一義さんで、71年からはキヌでした。
そういう存在だから、私としても負けたくないわけです。良きライバルとしてお互いが張り合うから、キャンプでの練習量も増えた。初優勝の頃なんて、私らがお互い負けじと個人練習するものだから、若手も先に宿舎へ帰るわけにはイカンよね(笑)。
それがチーム全体に波及していったんですよ。
ライバル心がチームを引っ張った。
- 山本
- そういうこと。
もう一つ、私は現役時代ほとんど試合を休まなかった(18年の現役生活で120試合未満は1年のみ。全試合出場は6年連続を含む8回)のだけど、それもキヌがいたから。
なにしろ相手は骨折しても休まないんだからね(笑)。
私だって腰をはじめケガはしたけれど、自分だけ休むわけにはイカンでしょう。
確かにそうですよね。
- 山本
- そういうライバルだから、2人で食事に行くとか、仲良く語り合うとかはまずなかった。
ただ、75年にカープの初優勝が現実味を帯びてきたとき、キヌと2人で「どうすれば勝てるのか」をじっくり話し合いました。そうして一度優勝を味わったら、本当にいいものだと分かる。
そこからですよ。ただ張り合うだけでない真のライバルになって、チーム自体も本当に強くなれたのは。
まさに黄金時代誕生秘話ですね。そういえばその年、カープは赤ヘルになりました。
- 山本
- 監督のルーツの発案でね。
最初はまぁ恥ずかしかった。他球団の連中からもバカにされてね。だけど勝ったことで気持ちも変わる。
後にアンダーシャツもみな赤になったけど、それはまったく抵抗がなかった(笑)。
赤でないカープは考えられません。そして山本さんは、球界の四番打者となります。
- 山本
- 自分が四番なんだと意識するようになったのは、初めてオールスターで四番を打ったとき(80年第1戦)。
私らの時代、四番といえばずっと王貞治さん。
その王さんがいるのに四番を任されたのは、かなりのプレッシャーである反面、喜びでもあった。
「ああ、自分はここまで来られたのか」と感慨にも似た気持ちになったし、また自覚を持たねばとも思いましたね。
プロ入り当初、山本さんは決して長打が売りの選手ではなく、むしろ足が速く、守備の上手いタイプだったと思います。
- 山本
- 実際、自分でも三番タイプだと思っていたしね。
守備と肩には自信があったし、盗塁も231個している。ファンに認められたのも守備からですよ。
あれは1年目の開幕2戦目だったかな。
走者が二塁にいて、右中間へのヒットに飛びつき、ノーバウンドで返してホームで刺した。
そのときの市民球場の歓声といったら、本当にビックリするほどで。
だからセンターを守って、どれだけ広い守備範囲でできるかにこだわりましたよ。
それが年を経て長距離砲になり、コンプリート・プレーヤーの先駆け的存在へ……。
- 山本
- いや、自分では長距離砲とは思ってはいませんでした。それはタイトルを獲ってからも変わらない。
自分の打撃は右中間、左中間を抜いていくもので、それがしっかりある中で、だんだん「こう打てば打球が伸びる」という感覚を身体が覚えていったんです。
自分で一番いいフォームは右中間への本塁打だったんだけど、まんべんなく各方向に打てたのは、僕が最初だったのかもしれないね。
その後、落合博満や掛布雅之も同じようなタイプで本塁打王になっていったんです。
狙って打ったのは、536本の中で10本もない。
そうなんですか?
- 山本
- 一番覚えているのは江川卓から打った1本。0‐3から打ったんだけど、例えばブチ(田淵幸一)のような本当の長距離砲なら引っ張ってレフトに打ちますよ。
でも私はそれを左中間センター寄りへ入れた。江川の球筋を考えて、真ん中ストレートだけ狙ってね。
それをこう打てばスタンドに入ると思って打った。あの一打はとても覚えているなぁ。
最後に山本さんを再現する際、こだわりたい部分はどこですか?
とはいえ、ほとんど満点に近いパラメータになりそうですが。
- 山本
- ははは、ありがとう。
まぁ守備にはこだわっていたので、そこをお願いしますよ。
- 山本 浩二(やまもと・こうじ)
- 1946年10月25日、広島県佐伯郡出身。
廿日市高、法政大を経て69年ドラフト1位で広島入り。
75年より四番に完全定着し、首位打者、MVPに輝く活躍でチームを初のリーグ制覇に導く。
77年からは5年連続40本以上を放ち、絶対的な存在として「ミスター赤ヘル」と親しまれた。
本塁打王4回、打点王3回など数々のタイトルを獲得し、86年限りで現役引退。
18年間の通算成績は2284試合で打率.290、536本塁打、1475打点。
広島監督を89~93年、01~05年の二度務め優勝1回。北京五輪では日本代表のコーチも務めた。08年野球殿堂入り。